Dec 10, 2016

藤田嗣治展

どうしても見ておきたくて、
娘たちを送り出してすぐに府中市美術館、藤田嗣治展に駆け込みました。


乳白色の肌の女性の、美しくて洒脱な印象が強かったのですが、
実物を画家の一生をなぞりながら見ると全然、ただ美しいだけじゃない。
一枚一枚の、その絵を描いていた時の藤田の気持ちや気分が、
映画のように浮かび上がって、そして打ちのめされました。


彼が渡仏後、日本との関わり、戦争との関わりで受けた傷を思いました。
日本を去る時に放った言葉というのも痛々しかった。
それは派閥に別れて争ったり、目立つ者やマイノリティ、異端を貶めたりする人たちに対する言葉だったと思う。
そして「今の日本だってなんにも変わらないじゃないか」ということに気付き、ずーんと重い気持ちを引きずりながら、
彼が日本国籍を捨てた時や、礼拝堂建立に邁進した時の気持ちを想像したのでした。
藤田にパリという場所があって良かった。





実物の絵を見るまでは小さな図案しか見たことがなかったので、
藤田の絵は色の印象が強かったのです。
が!すごい線だった!
1センチくらいまで近付いて見たかったですが、そんな観客の気持ちを想定してしっかり停止線がありました。
そして素描が「ひえ〜!」と叫んじゃうような、やはり迷いなく美しい線!
静物画のお洒落さにも痺れた。
戦争画はほとんど宗教画のように見えた。宗教と違うのはそれが事実であるってことだ。(キリスト教の宗教画って本当なら目を覆いたくなるような場面もいっぱいあるのに、”宗教だ”と思うから直視できるんですね)

そして、完成されたように思えた後に、ひどく迷う、
あれこれ試してみるところに人間くささを感じた。
猪熊源一郎展を見に行った時も思ったこと。






Dec 8, 2016

「ふしぎな木の実の料理法」




友達の家の本棚にささったこの本の背表紙を見た時、
「あ〜!これ!これだ!」と心の中で歓声をあげました。

「不思議な家の間取り図の絵がたくさん載っていて
 ちくちくした頭の子が出てくる童話…
 あれ好きだったんだよな〜なんだっけなぁ。実家にまだあるかなぁ…」
とここ数ヶ月の間ぼんやり考えていたまさにその本を、友達の家で見つけたのでした。


その後諸用で奈良の実家に帰ることがあり、本棚を探してみたら3分で見つかりました。
茶色く焼けたこの本はいったい何年ぶりに本棚から出され、ページを開かれたんだろう?
本という物が持つ数奇な運命に思いを馳せながら、久しぶりに読み始めました。


登場人物が誰もみな素晴らしく魅力的で愛らしく、
そして例の間取り図は精巧で奇妙、ウキウキしてつい顔がにやけます。
内気な主人公の変化していく様子にも心を打たれて、
本当に素晴らしいお話だった、まるではじめて読んだような感動。
「まるで?実ははじめてだったんじゃない?」


最後まで読んで気付いたんですけど、たぶん9歳の私はこの本を途中で投げ出してしまったんです。そして挿絵だけを眺めていたのかもしれない。
はっきり覚えていないけど、そのような気がします。
実家でこの本を発見した時にふとよぎった、微かにほろ苦い感覚にも説明がつきます。
たぶん当時の私にはこれを独りで読み切るだけの読解力がなく
こんなに挿絵は大好きなのに、それなのに…という苦い思いがあったのでは。
自分で選んで買ってもらったのに(しかもハードカバー!)最後まで読み切らなかった罪悪感もあったはず。


「続きを読んだよ。すごく良かったよ。
 この本を選んでくれてありがとうね。」
と小さい私に言ってあげたいなと思うのでした。







Dec 6, 2016

「そういう時だ」



「そういう時だ」

と、言ってしまえば簡単なのだけど。
引越しが落ち着いて個展が終わってすっかり気が抜けてしまいました。

いろいろなところで、見たいものや偶然見られる物を見て、
それは展覧会だけじゃなくて、
本やテレビや自然のあれこれだったりもするんだけど、
とにかくいろいろ見て、
人に会えれば会って話して、
自分の身の内にあるホカホカしたものを暖めようかな、と。
今はしょぼしょぼのお線香みたいになってますが
いずれキャンプファイヤー!みたいになるでしょう。


「今の私はスポンジやな〜」とふと思い、
「またいいように言って。ただ怠けてるだけやろ」と自分で突っ込み、
「インプットインプット〜」とまた思い、
「そういうインとかアウトとかすぐ決めつけるところがダメ」とまた突っ込み、

頭の中にたくさんの自分がいて会議をしているような毎日。